天保3年(1832)、広瀬旭荘は九州豊後、日田の私塾・咸宜園の塾主であった。<br />兄の淡窓は世に知られた学者であり、詩人であったが、代官所の横暴で、旭荘が兄の養子となり、塾主となったのだ。<br />その日、旭荘は二度目の妻・松子を迎えた。<br />旭荘はカッとなるたちで、前妻は去った。<br />心優しき詩人である旭荘の本質を松子は理解していた。<br />やがて堺に遊学した旭荘は大塩平八郎の決起に遭遇した。<br />各地が騒然としていたが…。<br />