柳生石舟斎宗厳(むねよし) 戦国を戦い抜いた柳生新陰流の祖
柳生新陰流の祖として、「剣聖伝説」に彩られている柳生石舟斎宗厳。
しかしその生涯は、まさに厳しい苦難の道のりであった。
大和国に割拠する列強の一人・筒井順昭に攻められ、小柳生城が落ちたのは宗厳16歳のとき。
その後は15年の人質生活を送り、柳生庄に戻るのは31歳、松永久秀に属してからである。
しかし35歳のとき、奈良宝蔵院で上泉伊勢守信綱と出会ったことで、ついに柳生新陰流創始への糸口をつかむ。
剣名を高めていく宗厳だったが、小領主としての艱難は続く。
松永久秀に味方した合戦で長男厳勝が重傷を負い、将軍義昭の没落を機に45歳で柳生庄に逼塞する宗厳。
66歳のときには太閤検地に際して「隠田」を密告され、所領没収の憂き目をみる。
柳生家の繁栄は、5男宗矩が徳川家康の下で活躍する「関ヶ原」以後、宗厳70歳過ぎのことであった。
剣の道を一筋に歩みながら、戦国の激動のなかで自らの宿命と戦い続けた男の生涯。
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