なぜ日本人はとりあえず謝るのか 「ゆるし」と「はずし」の世間論
日本人はだれしも「世間」にとらわれている。
世間という人的関係の中で、「ゆるし」や「義理」「人情」といった原理に庇護されて生きている。
西洋では、神にたいして罪を告白するキリスト教の「告解」という制度により、「個人」が形成され、その集団である「社会」が誕生した。
しかし日本にはいまだに個人も社会もなく、世間のなかでしか「存在論的安心」を得られない。
ゆえに、日本人は世間からの「はずし」を強く恐れる。
日本の犯罪率が低いのはそのためである。
もし犯罪や不祥事を起こした場合は、ただちに謝罪しなければならない。
日本では真摯な謝罪によって、世間からの「ゆるし」を得て「はずし」を回避することができるのだ。
ところが、近年日本の刑法が厳罰化する傾向にある。
これは犯罪をゆるす「世間」が解体されつつあることのあらわれなのか?法制度の変遷をたどりながら、日本「世間」の現在を問う意欲作。
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