現代沖縄の歴史経験 希望、あるいは未決性について
宿命的に沖縄経験を背負わせ、当事者として据え置いたうえで、饒舌に、また正しさを競い合いながら解説される「沖縄問題」がある。
問われているのは、たんに当事者こそが経験を語るべきだということでは、ない。
問題は、こうした饒舌な解説が何を回避し、いかなる事態を怖れているのかということにある。
そして回避行動から離脱し始めるとき、経験にかかわる言葉は別の連累を担うはずだ。
そこに本書の言葉たちは据えられる。
その場所は、始まりであって、正しさではない。
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