お金について何を言おうと、必ずその反対語もついてまわる。お金は粗野であり高貴である。虚構でありながら現実でもある。人を引き離すこともあれば、結びつけもする。たくさんあれば恐ろしくなるが、足りないのも恐ろしい。悪を行う善であり、善を行う悪でもある。お金は叡智探究の裏付けになる。これは二つの意味に理解される。お金を持つのは賢明であり、それに対する批判的思索も賢明だということだ。お金は常に我々に自分の欲望、財産、負債と折り合いをつけるよう強いる。誰であろうとすべての人を哲学者にしてしまう。賢く考えることは、自分自身と他人のために賢く遣うことでもある。お金は露呈させる。ケチと浪費家、守銭奴と嫉妬深い輩を暴く。懐具合はすべてを明らかにする。誰もお金に気を許せない。それを憎んでいると信じている者でも、内心ではそれを崇めている。それを崇めている者は、過大評価している。それを軽蔑しているふりをしている者は、自分をごまかしている。問題をはらんだ情熱、不可能な非難。そこが難しいところだ。お金について語ることは常に、自分について語ることである。